形式と内容

形式と内容

形式と自由

建築界で一昔前に回遊性という言葉がよく使われました。回遊性というのは、建物に行き止まりが無く、ぐるぐると巡れるということです。

玄関(エントランス、学校の校門など)からそれぞれの部屋まで、しっかりした序列の元に、合理的にアクセスできる建物のあり方に対して登場した考え方です。
建築をプログラムに合わせて厳密に整然と作るんじゃなくて・・・、例えば都市や街が持っている回遊性という性質を建物に導入したらもっと建築は魅力的になるんじゃないか?ということです。

そしてこうした話は建築の「形式と自由」ということがセットになって語られます。形式が変わることによって新たな自由が獲得できる、という前提の元に話が進められます。
(形式とは内容に一定の秩序を与える枠組み、と解釈しています。ここでいう内容とはプログラム、行為、目的を達成させるための実質のことです。)

例えば公共施設のようなものを例に挙げて考えてみます。
大きな箱の中に小さな部屋が仕切られているのではなく、小さな建物を敷地一杯にばらまいて、いろんな所から自由にアクセスできるようにしました、という説明があったとします。
図面で見るとそれぞれの部屋はばらまかれていて、いろんな所から自由にそれぞれの場所へと巡れるようになっているので、見る人は納得してしまいます。なるほど、なかなか楽しい建物じゃないか、・・・と。

・・・しかし、本当にそうなのでしょうか。
自由度の高い形式を作ると、行動も自由になるのでしょうか?
ここに疑念があります。

私達は形式通りに行動しているのか?

形式と内容震災の時、既存の町並みが破壊されることがありますが、人々は秩序ある街の形式から解き放たれて、自由に歩き回るでしょうか?

そうではないはずです。
たき火や食料、避難施設を中心に行動するのではないでしょうか?

他にこんな例はどうでしょう?
動物たちが日影で寄り添っている風景をテレビや写真で見たことがあるでしょう。広大な草原やサバンナが広がっているにもかかわらず、木陰で休んでいます
サバンナ

広大なフィールドがあるにもかかわらず、行動が極めて限定的です。
人間(生き物)は自由に振る舞っているようで、実はそんなに自由に行動しているわけではない、と言えるかもしれません。形式と人の行動は必ずしも一致していないのです。

※私達は環境や状況によって行動は思いの外限定されてしまうということかもしれません。特に温熱環境がもたらす影響力は強力です。例えば、店舗において回転率を上げるために、クーラーを効かせすぎた状態にしておくという話もあります。お客さんが寒くて、長居できなくなってしまうのですね。こういうロジックを使って空間の使い方を意図的にコントロールすることも可能ですが、私自身は「環境縛り」と名付けていて禁じ手として使いません。

逆にうまく利用する手もあります。冬場の動物園でライオンが表に出て来てくれないので、子供達が残念がっていたそうです。そこで観客のそばに温熱パイプを通した偽石を用意したそうです。すると暖まるためにライオンが進んでその石に座るようになって、子供達も大喜びしたそうです。(・・・ライオンには良い迷惑でしょうが。)

形式の意味

ならば形式にはどんな意味があるのでしょうか?

役所などの書類は様式が定まっていますが、もし白紙を渡されたら何をどのように書いたらよいか困ってしまいます。チェックする方も大変な作業を強いられることになります。

ここで形式の役割が見えてきます。
形式が定まることで認識の効率性が高まり内容を把握しやすくなるのです。したがって、「内容」をきちんと伝達するために相互にフィードバックして「形式」を定める必要が出てきます。

形式のあり方は私達の視覚や認識に直結していることから、「表現」と密接な関係があり、「形式と内容」の相互作用としてアウトプットしなければ、安直な表現に陥る可能性があります。この両者の関係を最適化しないと、形式は「内容を表層的に伝達するだけの抜け殻」になってしまいます。