デザインへのアプローチ
自然科学と工学をめぐる問題

自然科学と工学

物づくりやデザインを追求しようという人は一度はぶつかる問題があります。「どうやってデザインにアプローチするのか?」という問題です。建築だけではなく機械でもプロダクト製品、家具・・・どんなデザインジャンルであれ、現れてくるであろう問題です。
手当たり次第に思いつくままに作り、作品ごとのスタイルがばらばらというやり方も可能ですが、自分なりのデザインの捉え方やアプローチ方法を掴みたいと思うでしょう。それがつかめれば、どのようなジャンルのデザインにも適用ができ、独自の展開が可能なはずです。
 

自然科学について

自然科学は基本的に「~とは何か?」とか「自然の諸現象の中にどういう原理や法則があるのか?」という問い方をします。例えば「生命とは何か?」とか、「どういう過程で地球という惑星が成立したのか?」といった具合です。物事の成り立ちや背後にある原理原則を追求するのが基本的なスタンスとしてあります。

自分なりに勉強して理解してきたことは、こういった問いかけ方は非常に西洋的な思考だということです。西洋では「この世は神が創った」という前提があり、神が創った秩序があまねく世界に行き渡っているという基本コンセプトがあるのだと思います。哲学を始め物理学や天文学など、すべては宇宙や世界の秩序を見つけ出していく作業と考えて差し支えないと思います。

もうちょっとわかりやすく書くと・・・

→この世界は神が創った。
→そして人間も神が創った。
→ところで人間には理性がある。
→だからその人間を創った神は超越的な理性をお持ちに違いない。
→そんな理性で宇宙を創造したのなら、当然のごとく世界の隅々まで完璧な秩序に基づいてできているはずだ!

こんな前提があるというのがだんだんわかってきました。
歴史を見ていくと、こういう秩序の発見というのは常に見いだすことができます。
美しいと感じる人体をよく観察すると、なにやら比例関係があるぞ?・・・これを黄金比と名付けたわけです。その理論に基づいて彫刻や建築に応用されていきました。例えば西洋の古典建築の本などをひもとくと、製作過程で全体のプロポーションや窓配置を最終決定するにあたって、比例則をガイドにしたスタディ図面を見ることができます。

ウィトルウィウスの建築理論に始まり、アルベルティといったルネサンス期の巨匠のみならず、コルビュジェやミース、丹下健三といった近代の巨匠達も比例則を意識していました。

1970年代にフラクタル理論が提唱されましたが、これは海岸線や山や川の形状が一見ランダムに見えるので自然の気まぐれに思われていたのに、微細に見ていくと実は一定の秩序や法則性があった、・・・ということで西洋的コンセプトの琴線に触れるものだったんだと思います。

科学が大きな力を得ていてもなお、西洋では神の創造概念が根底にはあるのだろうと想像できます。

天動説と地動説を巡る有名な話がありますが、新しい発見が旧来の概念を崩した、という単純な話ではありません。人間が物事を考える基盤が変わりつつあったことを意味しています。「神」という基盤とは異なるところから考えていくわけです。特殊な人たちの「経験」や「カン」に頼らずに物事を考え組み立てていきます。世界の成り立ちを「仮説と実証」を繰り返すというプロセスを経て説明します。そしてそこから法則を見いだすことで普遍性を獲得していきます。これが「科学」です。

※ちなみに科学の中には自然科学、人文科学、社会科学などが含まれていますが、一般的に「建築」は自然科学の中の「工学」に分類されています。本稿はこの分類に対する疑義です。

建築は本当に自然科学に属するのか?

建築とは何か?」という問いかけは少々漠然としているにしても、住宅なら「住宅とは何か?」とか、公共施設で「公共ってなんだろう?」とか考えていくわけです。大学などの課題でもそういう問いかけや課題が出されることと思います。私の中ではこういう思考方法がいつまでも引っかかっていました。

「~とは何か?」からはじまり「もしかしたらこういうことなのかな?」と仮説を立て、「だったらこういう風に創ってみたらどうなる?」・・・というプロセスがいまいち腑に落ちませんでした。なぜなら、自分なりに定義づけたところで一向に納得いく作品にはならないばかりか、形にすらならないことが多かったからです。「こうしたら面白いな」という着地点で納得してしまうことにも抵抗がありました。

「~とは何か?」というのは言ってみれば新しく知識を見出そうとする行為です。新しいものを創るために、新しい知識が前提になるなら、都市や住宅といったテーマに関して莫大な予算と手間と時間を割いてリサーチする必要があります。とても個人の手に負えるような代物でもなさそうです。

ひとたび設計を始めるやいなや、膨大な情報とともに分析や解釈に没頭しなければならないでしょう。これではとてもデザインをしているとは言えませんし、始まってすらいないわけです。

こういうデザインの進め方は、知識を前提とした作り方とも言えます。もし知識が創造の前提なら、頭がよくて知識が豊富な人ほど、良い作品が作れることになりますが、必ずしもそうとは言い切れません。ものを作る上では何か別のファクターが存在しているのです。

作品の存在根拠や理由を突き詰めていくと、いつしか明確に答えることのできない領域に突入していきます。自然科学的な問い方でデザインを進めると、こうした壁に必ずぶつかりました。デザインしていく上では何かが決定的に足りないのです。

それは何だったのか?

デザインの出発点

物事の客観的な成り立ちや作品の存在理由を厳密に追い求めた結果、私の創作活動は一歩も進めなくなりました。

わかりやすく言うと、こういうことです。

例えば「あなたが友達と会った」とします。
これに対して、「なぜ会ったのですか?」と聞かれて、この行動の客観的な理由を説明するとどうなるでしょうか?「二人で約束したから」と説明したり、「一緒に遊ぶから」と目的や意味から説明することはできそうです。

しかし例えば、
なぜ3人で会ってはいけなかったのか?
スカイプで話をするのではダメだったのか?
明日ではなく、なぜ今日なのか?

・・・と無限に行為の説明を求めることが出来るし、それに対して無限に回答が可能です。普段の生活でこんなことが問題になることはないですが、それはさておき、実は本当のことが何も説明できていません。本当のこととは・・・

あなたは友達に会いたかったのです。

・・・人間が何かを求めようとする想い、意識、心の動きが全ての出発点になっていると思います。この世界の成り立ちも様々な説明がなされるけれど、結局はみんなが「こうしたい!」と想う、その相互作用の結果です。客観的説明とは結果やそこに至るまでのプロセスを説明しているに過ぎません。
相手にわかりやすい伝達方法として優れているのかもしれませんが、客観的説明はどこまで行っても核心を説明することはできません。

※例えばウィキペディアによると、「大蔵経」という教典に編入された仏典の総数は5048巻あったそうです。説明を複雑に精密化していっても真理には辿り着かないという証明を見ているようです。

無から有が生まれる瞬間には欲望や意識が関与しているのであって、完全に説明し尽くせる領域ではありません。

・・・こうして、ものづくりにおいて自分の中から湧き出てくるものを出発点にしようと考えるようになりました。
言葉にしてしまうと、あっけないぐらい当たり前で、皆さんには不思議に思えるかもしれません。しかし学生の時からデザインを勉強すると、知識や雑多なこと、創作とは全く無関係な話に翻弄されて忘れてしまうようです。でもやはり内から沸き出る想いが根本にないとダメです。作品の存在理由が自己の内側にない作品は作品と呼べません

※建築は実現までに無数の制約がかかってくるので、簡単に自己の外側に存在理由を求めることができてしまいます。その方が圧倒的に楽に建築ができます。しかし内側から湧き上がるものから建築を作ろうとすると莫大なエネルギーが必要になります。感動したり元気になる建築とは、得てしてそういう建築です。

ビジョンを描く

さて、人が関わる以上全ての物は欲望や意識が出発点になっていると書きました。しかし「自分はこうしたい」と思ったことをそのまま形にすれば良いわけではなさそうです。なぜならそれは単なる思いつきやエゴの産物かもしれないからです。お客さんが納得しながら一緒に考えていけるような形で考えを提示する必要があります。

ではどうすればいいのか?
それは「ビジョンを描くこと」ではないかと思います。

ビジョンというのは、そこに広がる具体的な理想の未来のことです。ささやかな理想でも良いと思うし、究極の理想でもいいのです。建築に関わる枠組みの中で描ける「最高の未来」を描き出す。全てのデザインはここから出発する必要があると思います。
個人的な想いや執着といったエゴを一歩突き抜けて、多くの人を巻き込みながら、案の可能性や潜在力を高め、価値を共有していく方法だと考えています。

そして工学

今まで書いてきたアプローチで進めると

→ビジョンを描く(価値の共有化)
→諸条件の中で形を与える(ひとまずの仮定)
→シュミレーション(検証)
→最初のビジョンにフィードバック
→ビジョンの修正、改良(そして始めに戻る)

こうした循環をぐるぐる巡りながら論理的整合性を与えていきます。このロジックが明確で奥行きがあれば深い階層に渡って一貫性のあるデザインが可能です。

さて・・・、回り道になりましたが、こうした物作りのアプローチこそまさに「工学」だったのです。

工学というと建築の環境工学とか構造力学、材料工学、土木工学、家具で言えば人間工学など、なにやら実験やら数字とコンピュータシミュレーションというようなイメージが強いですし、機械やエンジンなどを思い浮かべることが一般的かと思います。故にデザインと工学は別物と思われています。

しかし、初期モデルを与え、シミュレーション、そしてそこから得られた知見を初期モデルへフィードバックさせるというプロセスは全く同じです。例えばエンジンも図面通りに初期モデルを完成させても、予測通りに動くとは限りません。無数の要因が絡み合って、望んだ結果が得られないことの方が多いはずです。そこでシミュレーションや実験をしながら、要因を特定して、少しずつ全体を修正していくわけです。

各社のエンジンが違う形をしているのは、初期モデル(ビジョン)が違うからであり、シミュレーション方法や、分析の質が異なるからです。もっと言えば、培ってきた設計思想や価値基準、美的基準も違うからです。・・・ということは設計者の特性を反映させやすい方法でもある、と言えそうです。

だから工学的アプローチだからといってオリジナリティーや芸術的側面の否定には全く繋がらないのです。

また、仮の枠組みとしてのモデルを与えるところからスタートするので、膨大な情報の読み込みや分析に追われてデザインが始まらないということもありません。ひとまず仮定のビジョンを元にたたき台を作れるので、現実的なアプローチだと思います。今までの経験、培ってきた知識、入手できる情報から出発できる進め方と言えます。

フレームについて

そのためにはまたちょっと回り道が必要で、「フレーム」の概念を知らなくてはなりません。
フレーム(枠組み)があるというのは、新たな知を発見したり、価値を工夫して生み出していくときに欠かせない概念です。枠組みというのは考える範囲を限定的に扱う訳ですから、創造力が押し込められてしまうようなイメージがあるかと思います。しかし実は「フレーム」によって人間の能力は底なしに発揮できるようになるのです。

どういうことなのか?実は映画や小説でもフレーム設定の方法は良く使われているのです。

殺人事件は大抵は密室や限定的な状況下でおきます。あるいは事件が起きたらすぐに橋が落ちたとか、電話線が切られて外界から遮断されたという限定的な空間設定に移行します。そこに居合わせた主人公達が問題を解決するわけですが、あえて限定された領域を設定しているわけです。この限られた領域の性質を「限定性」といいます。

「タイタニック」も周りは凍り付くような海が広がっていますし、深海やSFものとかも領域が限定されています。アメリカのテレビドラマ「24」は様々な事象が同時進行し、かつ24時間ぴったりで困難を乗り切るというフレームがあって初めていろんな要素を盛り込めるのです。

もし殺人事件が起きて犯人が普通に逮捕されたり、トム・クルーズが危機に陥ったとき、スーパーマンが現れて問題解決したらどう思いますか?全然おもしろくありません。

限定性が崩れて主人公の魅力を引き出せないわけです。

・・・というわけで、プロジェクト固有の知を見つけ出すためにもフレームが重要です。創造性を引き出す基盤といっても良いかもしれません。なぜフレームの話を出しかというと・・・ビジョンがフレームとして機能するからです。ビジョンを明確に定めることによって物作りを具体的に深く追求できるようになります。

まとめ

自然科学が物事の成り立ちを求めて核心(中心)に向かって知を導き出すジャンルなのに対して、工学はこれから先の未来において、現実問題により良く対処していくための知を生み出すジャンルと言えると思います。

「~とは何か?」ではなく「何のために?」という問いかけが意味を持ってくると思います。

両者は包含関係では無く、反対のベクトルを向いているが故に、相互に影響を及ぼしながら発展してきました。例えば光学理論が望遠鏡を生み出し、望遠鏡が宇宙理論を、宇宙理論が精密観測機を生み出すといった相互の発展の関係に現れています。

ですから工学は自然科学の中に含めるのではなく、反対向きの別個のジャンルではないか?というのが自分なりの結論です。

デザインを進めていく中で、この工学的な知を発見する瞬間、そしてそこからフィードバックしてビジョンが完成する瞬間が大好きです。複雑な全体の中で、歯車が強力にかみあうような充実感があり、挑戦するに値する面白さがあります。