表現の可能性について
自分の建築という表現ジャンルにもどかしさを感じたことがあります。学生の頃から私は音楽のアーティストをうらやましいと思っていました。なぜなら感情を作品にのせられるからです。曲のメロディーやリズムだけではなく、歌い方でもそれを表現できます。
一方で建築は地味な作業が多く、動かないものがほとんどですから、なにか感情が湧いてきたときに、アーティスト達のようには表現できないのです。
逆に音楽をやっている人に聞くと「建築は形として残る。だから逆に建築やっている人がうらやましいよ。」とも言われました。音楽やってる人は逆のことを考えているのか、、、と気づかされました。
また、表現が実現化するまでのタイムスパンも違います。これはもう決定的です。仮に建築と音楽の技術力が同程度であっても、発想してから形になるまでの時間が桁違いに異なります。音楽であれば、30分ぐらいでほぼ形にしてしまうこともあるようです。もっと言えば即興演奏ということもできるわけです。しかし建築はそうはいきません。スケッチを始めて、竣工するまで2、3年かかったりするプロジェクトもあるわけです。
この問題は何年か考え続けました。
それぞれのジャンルでの表現に適した方向性がありそうですが、その「表現の限界と可能性」がいまいち見えませんでした。しかし徐々にわかってきたことがあります。例えば昔見たポスターでこういうのがありました。・・・想像してみてください。
黒い背景の真ん中に、赤いマッチが立てられています。
縦10本横10本(合計100本)ぐらいにまとまって並んでいます。
そこへ角から火のついたマッチを近づけると、次々に隣のマッチに引火。
全体に火が燃え広がっていく瞬間を捉えた写真でした。
・・・そして小さく「エイズ撲滅キャンペーン」と書かれていました。
何か頭の中に何か生まれましたか?私はエイズの急速に拡大していくイメージや、戦慄といった感覚、そして私たちに警鐘を鳴らす、力強いメッセージを感じました。
これがメタファー(隠喩)の力です。私はこのメタファーの力にとても惹かれます。言葉では説明しにくいことを直感的に伝達できるからです。つまり音楽や小説、映画が表現していることを建築でも表現しうる可能性を示唆しています。
「もの」は物理的に形を持った瞬間から何かを表現します。それが意図的に表現されたものであろうと無かろうとです。リンゴであれば、瑞々しそうとか、酸っぱそうとか、ずっしり重たそう、といったことを必ず表します。ものが存在する以上、表現から逃れることは出来ません。
そして「もの」が特定の組み合わせにたどり着くと、それぞれが持っている表現を超えて、別の新しい表現が生まれます。先に書いたポスターでは、「マッチ」「火」「文字」だけで、力強いイメージや感覚、メッセージ性を生み出しています。
考えてみれば当たり前のことですが、いったんこれに気がついたら色々なことがわかったような気になり、建築の表現に大きな可能性を感じ始めました。・・・なんでも表現できる!と。
表現の限界とは何だったのか?
様々なことが表現できるといっても、エイズの警鐘をならすために、何億円もかけて建築で表現してもまるで意味がありません。
巨大なマッチを並べたような建物を作って、屋根に炎のオブジェを載せたところで、エイズの脅威を効果的に表現出来るとも思えません。むしろエイズ撲滅のための機関として働きやすい建物を機能的に作った方が効果がありそうです。
ということは、何でも表現できるからといって、何でも表現していい訳ではない、と言えるかもしれません。
例えば建築は社会規範や歴史や都市や文化、生活といった背景に根ざした枠組み、あるいは法的な枠組みによって制約を受けます。音楽には音楽の制約があり、建築には建築の制約があるわけです。
それ以来、建築には建築固有の表現領域があるのだと考えるようになり、今でも製作の過程で絶えず自問自答します。これは建築でしか表し得ないものなのか?と。
結論
結論としては「表現の可能性は無限にある」けれど、「限界点は作品の外側から規定される」と言ってもいいと思います。